BVE総武・成田線


総武・成田線(千葉〜佐原間)・鹿島線、東金線(成東〜大網)とは?

BVE総武・成田線

 現在、東京・御茶ノ水〜錦糸町〜千葉〜佐倉〜成東〜八日市場〜銚子と結ぶ総武本線は、1894年12月に市川〜佐倉間が総武鉄道として開業した、千葉県で最も古い鉄道です。

1897年1月には、成田山新勝寺への参拝客輸送を目的とし、総武鉄道の成東方面延伸に先駆けて、現在の成田線となる下総鉄道(その後成田鉄道)として成田まで開業しました。
その後も延伸は続き、12月には滑川(現在の滑河駅)、翌年の2月には佐原まで開通し、1901年には現在の我孫子線も開通。
当初から日本鉄道海岸線(現在の常磐線)や総武鉄道との直通運転が行われており、現在につながる運転系統はこの頃すでに出来上がっていました。

 総武鉄道と成田鉄道は1920年に国有化され成田線となり、佐原より先への延伸は国有化後となり、1931年に笹川、1933年に松岸まで開通し、成田空港への支線は国有から再び民営のJRとなった1991年に開通しました。

 近代化については、千葉から先は1965年の千葉〜四街道を皮切りに1986年までに順次成田まで複線化されましたが、未だに総武本線佐倉以東は単線のままです。
電化は、1968年に物井〜佐倉間の寺崎台地をトンネルで抜けるルートに変更した後に、千葉〜佐倉〜成田間が電化しましたが 総武本線佐倉以東は1974年にやっと電化と、路線名に反し千葉〜佐倉〜成田方面といったルートが本線格になりました。
それを示すかのように、下り列車は佐倉駅を出ると、成田線の列車は直線をスルー、総武本線の列車はうねうねとポイントを渡り八街方面へ向かいます。

そして、1991年の成田エクスプレス運転開始でその傾向がかなり強まった感があります。

 一方で鹿島線は、成田線の香取駅から北へ分岐し、潮来・鹿島神宮を経由し鹿島サッカースタジアムまでを結ぶ鉄道路線です。

日中は主に成田線の佐原駅から鹿島神宮までの折り返し列車で運行されています。

 現在の鹿島線と鹿島臨海鉄道大洗鹿島線にあたる佐原〜鹿島〜水戸への鉄道は大正時代に計画があがり、それ以外にも人々から大きな信仰を集めていた鹿島神宮を目指して様々な鉄道が計画されていました。
しかし、千葉県側から鹿島神宮へは、車の走れるような道路が無い、もっぱら自家用船が活躍するような水郷地帯であり、霞ケ浦や利根川などの大河、無数の小さな川を越えなければならないことから遅々として計画は進みませんでした。

 そして、鹿島臨海工業地帯を建設するにあたり、大量輸送機関が必要となることから、国鉄鹿島線として、成田線香取駅から鹿島を経由し水戸を目指して鉄道建設公団の手により建設が開始。
 大河を長大鉄橋で、無数の小さな川がある水郷地帯は一気に高架橋で突っ切り、昭和45年(1970年)8月に香取〜鹿島神宮間が開業し、4か月後の12月には、鹿島臨海鉄道鹿島臨港線との中継駅となる北鹿島貨物駅(現在の鹿島サッカースタジアム駅)まで開通しました。

 ただし、当時の北鹿島駅周辺の人口は少なく、特に集客出来るような施設もないので旅客営業については、ひとまず鹿島神宮までとなりましたが、昭和53年(1978年)より5年間、成田空港への燃料輸送となると、空港反対過激派によるテロの標的となる可能性は大きく、住民への見返りとして、鹿島線と鹿島臨海鉄道鹿島臨港線の鹿島神宮〜北鹿島〜神栖〜鹿島港南で旅客輸送を行うこととなり、今まで貨物輸送オンリーだった鹿島神宮〜北鹿島間にも(国鉄の列車ではありませんが)旅客列車が1日3往復走ることとなりました。(それでも北鹿島は通過扱い)

 また、建設中だった鹿島線の延伸区間(北鹿島〜水戸)については、予測輸送密度が4000人/kmを超えることから、建設続行とはなりましたが、国鉄としては受け取りを拒否したいということで、鹿島臨海鉄道を沿線自治体などによる増資の上鹿島線延伸区間を受け取ることとなり、昭和60年(1985年)3月に水戸〜北鹿島が大洗鹿島線として開業し、北鹿島〜鹿島神宮間は鹿島線に乗り入れるスタイルとなりましたが、この時点で北鹿島駅は貨物駅のままであり、双方の終着駅にもかかわらず貨物駅なので旅客全列車通過という非常に珍しい形態となりました。
 そのため、JR時刻表などは“北鹿島駅は全列車通過します”という注釈付きで書かれており、さらに青春18きっぷなどの利用や、鹿島線と鹿島臨海鉄道をまたがる乗車券の場合は連絡駅として旅客営業がない貨物駅の北鹿島駅発着の乗車券が発行されていました。

 1993年にJリーグが開幕した際に、鹿島町(当時)をホームとするチーム、鹿島アントラーズが結成され、ホームグラウンドとしてカシマサッカースタジアムが北鹿島駅のすぐ近くに完成。 観客輸送のために鹿島神宮駅や鹿島大野駅からバス連絡としていましたが、北鹿島駅の旅客化が要望され、鹿島サッカースタジアム駅として旅客化されましたが、それもサッカーの試合日やイベント時のみで、そのほかの日は今までと同じく。旅客扱いを行わない貨物駅として営業されることとなりました。

 成田空港開港時には総武本線・成田線・鹿島線の各線は、鹿島港からのパイプライン開通までまでの暫定措置として、数年間、蘇我・鹿島神宮から成田市土屋(現在のイオン成田ショッピングセンター付近)までジェット燃料輸送を行っていました。
そのため、現在でも沿線には過激派の攻撃避けのため有刺鉄線や長大編成の貨物列車に対応するため、成田〜鹿島神宮間の各駅のやけに長い有効長など、その名残が各所に残っています。

 車両は、普通列車に211系と113系が使用されていましたが両形式とも引退し、京浜東北線から来た209系に置き換えられました。
また、快速列車にE217系・E235系、特急列車がE259・255・E257系、貨物列車にEF64・EF210が使用され、冬は成田臨、夏はあやめ祭り臨に多彩な車両やってくるなど、バラエティーに富んでいます。


東金線は、外房線の大網駅から、東金駅を経由して、総武本線の成東駅を結ぶ14.4kmの路線です。

歴史的経緯で、後の総武本線となる総武鉄道、後の外房線となる房総鉄道が経由しなかった、山武地区の中心都市である東金を結ぶ目的で、 1900年に房総鉄道が大網駅から東金駅までが開業した路線で、1907年に国有化されて1911年に成東駅まで延伸しました。
以降、外房線の支線として、特急列車などは設定されず東金市へのフィーダー路線として活躍しています。
また、外房線の土気駅付近にある急こう配を避けるため、千葉方面から勝浦方面への貨物列車が、総武本線と東金線経由で運転されていたこともありました。
旅客列車に関しては、成東駅は総武本線と編成が逆向きになり、大網駅で勝浦方面に進出出来ないなどの制約があるため、団体列車などイベントを除き総武本線との直通運転は行われません。
また、1973年の電化を前にした、1972年には大網駅がスイッチバック解消を目的に600m程度千葉方へ移転しましたが、営業キロは移転前の13.8kmのまま変更されず今日に至っています。
運転形態としては、2024年現在全列車が普通列車で運転されており、外房線・東金線経由で千葉駅から成東駅まで直通の普通列車も日中を中心に多く運転されています。
朝夕には京葉線からの直通列車も運転されているため、209系の普通列車を中心に、E233系の列車も走ります。




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